排除、転落、それにまつわる恐怖

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仕事中に上記の事件の記事を読むたびに(仕事しろ)、暗澹たる気持ちになってくる。どうしてこんなことになってしまったのか。仕事に手がつかず、ため息と、どうしようもない絶望を不味く粉っぽいコーヒーで押し流す。

最近、殺人事件に関するノンフィクション・ルポの書籍を立て続けに読んでいた(下記リンク)。作中の殺人犯たちの、歪んでいて身勝手な立ち振舞いに身が震えていた。こんな恐ろしい人間が「いた」のか。否、今も獄中という世界に確かに存在して「いる」というべきなのだろうか。そして人間はかくも残酷になれるのか。「人間を一番死に至らしめる動物は人間」という言葉を聞いたことがあるな、とふと思い出した。

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そんな矢先の痛ましい事件で、悲劇が繰り返されてしまった。今回の2事件も、取材の成果が遠くない未来に書籍化されるのだろうか。川崎の事件では被疑者はすでにこの世におらず、犯罪の動機という点ではどう深く考察しようが、もはや推論の域を出ないだろう(「無敵の人」だったのではという議論もある)。この事件の闇が100%明らかになることは、恐らくない。

事件の報道を目にしたときと、本を読み思考を巡らせていたときに共通していた思いがある。「いったいぜんたい、どうしたら人が死なずに済んだんだ?」という、救いを求めるような感情がその1つ。いずれの事件にも、社会的に深く断絶された存在(しかし完全にではない)が関係しているという共通点がある。大学の講義や教授の指導で「社会的排除」という概念について触れたことを思い出す。「排除」の逆、「包摂」はどこで行うことができたのだろうか。「ロスジェネ」、「80-50問題」といったキーワードも絡んでくるだろう。先月のはじめに改元が行われたが、これらは新しい時代の日本社会に大きな問題を提示しているように感じられる。それもグロテスクな形で。

もう1つは「追い込まれる恐怖」。少し考えてみれば、社会的断絶の恐れというのは自分のすぐ近くにも迫ってきているような恐怖感がある。仕事がうまく行かずに体調を崩したりすることは過去何度もある。「病状が悪化、職を辞して田舎に戻り、実家で引きこもりになってしまう」シナリオは、自分にとって十分想定されうるシナリオのように感じられてしまう。田舎で就職を探そうにも賃金が低かったり、田舎の雰囲気が嫌だったりして(現に田舎で働くのが嫌で転職したという事実があるし)、そのままズルズルと引きこもりが長くなってしまうことだって考えられる。

この引きこもり期間中に「就職しない=何者でもない」という価値観に陥ってしまうとかなり苦しい。ますます塞ぎ込んでしまうと思うし、家族の小言がいやにトゲトゲしく聞こえたりすることだってあるだろう。家族や社会に対する「誤った恨み」が自分の中で沸々としていく(この恨みは単なるエゴで、決して正しいものではないと今の段階では言える)。蓄積されていくストレスは、度を越すと一触即発なものになりかねない。親の何気ない言葉、周りの音、周りの人、爆発寸前の自分と交わりあったとき、自分は社会的動物でいられるのだろうか?

職を辞さなくとも、例えば何かしらの不景気で賃金が下がり、生活のレベルを落とさざるを得なくなった、労働の強度をあげないと生活ができなくなった、などのシナリオだって想定されうる。労働に忙殺され、スキルアップの機会や時間さえも奪われ、若い労働力の代わりに退場させられたり、隅に追いやられたりしたら…?とにかくこの世には「転落」を誘発する物が多すぎるように感じ、途端に生きづらさを感じてしまった。

せめて、今週の土日くらいは明るく過ごしていたい。